物集女城
別名- | 付近住所 京都府向日市物集女町中条 | 現在- |
2008/7/19 | 案内板アリ | 日本城郭大系 |
物集女氏 | 西側案内板 物集女城は、中世にこの地域一帯を本拠としていた国人(土豪)物集女氏の居城跡と考えられています。 長享元年(1487)上久世庄(現京都市)公文に「郷々出銭」を申し入れた「惣国」の代表者6人の中に物集女四郎右衛門尉光重の署名が見られます。この物集女氏はおそらく幕府の西岡被官衆の一人で、応仁の乱後、惣国の結集に参加したものでしょう。 織田信長が山城地域を鎮圧したのち、天正元年(1573)細川藤孝は桂川西岸一帯の一職を与えられ、国人らの領土を安堵しました。安堵を受けた国人らは、勝竜寺城(現長岡京市)の藤孝のもとに御礼に参上すべきでありましたが、物集女氏の当主忠重入道宗入は、代々の自分の領地であり参上するいわれはないと拒絶したため、勝竜寺で誘殺され、以後、同氏は衰退しました。 城跡は、この付近にある土塁と濠によって確認できます。土塁は、幅7〜12m、高さ1.0〜1.5mの規模で、北東隅の一部と東辺45m分が残っています。濠は、幅5〜10mを測り、深さ1m以上あります。現在も水を貯えている部分は、昔から地域の人々の用水池として利用されてきました。 こうした遺構から、城は東西100m、南北75mの規模を有していたことがわかります。この大きなムクの木のある所は少し高くなっており櫓跡と推定できます。敷地内は中央で二段に分かれており、西側が城主の居館のあった主郭、東側が配下の者達の住居等のあった副郭にあたると思われます。 また、この地域は、中海道遺跡(弥生時代を中心とする複合遺跡)の中心地にあたり、1800年ほど前から物集女集落の中心地として人々の生活の足跡が残されている所でもあります。 東側案内板 この場所には、室町時代から戦国時代にかけて、物集女城という館がありました。 目の前にのびる竹やぶは、館のまわりを囲んでいた土塁の東側の部分です。南北41m、高いところで高さ約3mの土塁が残されています。左手の背の高いムクノキにある場所は、まわりより少し高くなっていて、土塁北西の角にあたると考えられています。 竹やぶの向こう側には、水をたたえた堀があります。”城ノ池”と呼ばれ、田んぼに水を引く用水池として利用されてきました。この水は、向日丘陵(いまは西ノ岡とも呼ばれます、うしろをふり返ると見えます)の中にある池から、水路を通って流れ込むようになっています。 竹やぶの手前、畑などに利用されている場所は、発掘調査がまだ行われていませんが、左の想像図にあるような屋敷や小屋が建ち並び、当主が生活をする、館の中心部分(主郭といいます)と考えられています。 館の主は、今から約500年前の室町時代終わり頃から、乙訓の歴史に登場する国人(地元の有力な武士)、物集女氏です。その頃、このあたりは嵯峨天龍寺の荘園であり、物集女氏は物集女荘の代官(年貢を納める責任者)をつとめました。また当時の乙訓や、西岡(桂や川島付近もあわせたより広いまとまり)のリーダーとして活躍しました。 永禄11年(1568)、織田信長が京都にのぼり、乙訓・西岡にも進出してきます。信長勢の支配が強まるなかで、当時の物集女城主、物集女忠重(入道して宗入とも)は最後まで反抗します。ついに天正3年(1575)、信長から支配をまかされていた細川藤孝(幽斎)の居城、勝竜寺城下で忠重は討ち取られ、物集女氏は乙訓の歴史から姿を消しました。物集女城も、この時に物集女氏と運命を共にしたようです。 物集女城跡は、その後も長く集落のなかで、城跡として維持され続けてきました。現代の景観のなかに、京都をとりまく地域の歴史をたどることのできる、貴重な場所となっています。 |